05 偉人

やぶ市はこんなとこ

05 偉人

日本近代教育の推進者を育てた 池田草庵

文化10年(1813)に養父市八鹿町宿南の農家に生まれた草庵は、10歳で母を12歳で父を亡くし、広谷村の満福寺に入山して修行をはじめました。その後、18歳で寺を出て、京都の相馬塾に入門。1年足らずで塾頭になった草庵は、30歳にして帰郷し「青谿書院」を開塾。 66歳で亡くなるまで、多くの門人を教育しました。

 

明治の日本を支えた行政官 男爵! 北垣国道

ヒダリマキガヤがそびえる地は、北垣国道(きたがきくにみち)(1836~1916)さんの生家です。北垣さんは天保7年(1836)に能座村に生まれました。北垣家は庄屋を務める旧家でした。幼名を捨蔵といい、成人後は晋太郎といいました。天保12年7歳の時から池田草庵先生の元で学び、成人して青谿書院の塾頭になりました。しかし27歳で青谿書院を離れ、文久3年10月、沢宣嘉(さわのぶよし)・平野国臣(ひらのくにおみ)らが率いる生野義挙(一般には「生野の変」)に参加しました。
しかし生野義挙は破陣し、鳥取から長州に逃れました。その後は、鳥取藩に任官しました。柴捨蔵(しばすてぞう)や八木竜蔵と名乗って、倒幕運動に身を投じました。慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いの後には、山陰道鎮撫使西園寺公望(さいおんじきみもち)の随行を務め、1月15日には長州藩士柴捨蔵として但馬に入りました。また8月には新政府軍として北越戦争に従軍して、奮戦しました。

出世街道は養父市から始まった!藤堂高虎

藤堂高虎は、関ヶ原の合戦で徳川家康に味方し、最後には伊勢国の津城主として32万石の大名になりました。藤堂藩が高虎の足跡をまとめた「高山公実録(たかやまこうじつろく)」という書物によると天正8年(1580)高虎は加保村の武士・栃尾加賀守(とちおかがのかみ)[源左右衛門・祐善(げんざえもん・ゆうぜん)]の屋敷に寄宿しました。翌年、小代一揆の平定後3千石を加増されて銃長になったと言います。

ファンを魅了し続けた忍法帖シリーズ作家 山田風太郎

『忍法帖』シリーズや数々の歴史伝奇小説、そして『人間臨終図鑑』などのエッセイでも読者を魅了した養父市関宮出身の作家・山田風太郎氏。養父市内には氏の作品と人物を紹介する記念館があり。数多くの著書をはじめ、自筆原稿や創作ノート、愛用品など山田風太郎氏ゆかりの貴重な資料を展示しています。また、多くの作品を生み出した書斎を再現したスペースも設けられ、作家の日常にふれられます。